デザイナーであり続けるために、デザインへの態度と作家性を見つめる。UIデザイナーmine
『創作に関わるとき、その「身体」を通じて無意識にアウトプットに滲み出る手癖や思考、意図やプロセスといった「作家性」をいかに良い作用として活用するのか考えること。それが私が大事にしたいデザインに対する態度』
このように話すのは、グッドパッチのUIデザイナー mine。かつて紙媒体のデザインに注力していた彼が、なぜデジタルの世界に惹かれ、そして“作家性”と“身体性”をキーワードに制作領域を広げてデザインを続けているのか。
彼のキャリアを追いながら、モノづくりへの純粋な想い、いま大切にしているデザインへの姿勢、そしてデザインをする理由について話を聞きました。
目次
スクリーンに感じた「手触り感」への衝撃
私は東北芸術工科大学でグラフィックデザインを専攻していました。当時はポスターやパッケージなどの手触りある媒体へのデザインにどっぷりハマっていて、「このままきっとグラフィックデザイナーを目指していくのだろうな……」と、何となく思っていたんです。
ところが、大学の授業でウェブサイトをデザインから実装まで行う機会があり、スクリーンの世界を知った瞬間、「あれ、ただの平らなガラス板じゃないかも?」と衝撃が走りました。奥行きとか重力が存在するわけじゃないのに、なぜか手で触れているような感覚があったんです。その感覚への驚きと同時に「そこには作り手がいて、自分が今感じた驚きをデザインしている」ということを知覚させられました。
そこからオンスクリーンのデザインに興味が湧き、前述したウェブサイトを作る授業とは別に、インターフェイスデザイン概論の授業を別で履修しました。その授業で先生が教えてくれた「iPhoneのホームボタン」の話は、今でもとても印象に残っています。
当時のホームボタンは物理的に押し込むわけではなく、振動によって「押した感覚」を返す仕組みが採用されていました。実際には押していないのに、その挙動だけで「押し込み」の感覚が生じる仕組みだったんです。先生曰く、おそらく物理ボタンの故障による不具合を減らすための工夫として考えられたのではないかとのことだったのですが、押している感覚をデザインしている人がいるという事実がとても面白かったんです。
動き、振動、奥行きといった情報を重ね合わせることによって、人はピクセルの集合体をも触れていると感じられる。そしてその裏には、そうした体験をデザインする誰かが必ずいる……ということを知ったのが、「UIデザイナー」を目指すきっかけになったのだと思います。
デジタルならではの「無邪気な距離感」
もちろん、最初に作ったウェブサイトは出来栄えが散々で、実装もぎこちなかったなぁ……と今では思います。でも、それまで扱ってきた紙という媒体とは違ってデジタルなら何度でも気軽に作り直せるんですよね。印刷を経て、もう一度印刷するという「試行錯誤の距離感」ではなく、いつでも修正できる、アップデートできるという比較的「無邪気な距離感」がとてつもなく魅力的でした。
実際、当時ウェブサイトを作る課題に取り組んでいた頃に「どうすればもっと良いデザインになるんだろう?」と夜中ベッドで考えることがよくあって、「あ、こう実装すればユーザーが使いやすくなるかも」とふと思いつく瞬間がありました。その後すぐにPCを開いてエディタを触り、30秒後には見た目に現れている……。そんな頭の中で作っていることをできるだけリアルに反映するまでの距離感が、ソフトウェアの世界では本当に近いなと思ったんです。
もしも紙だったら「明日大学に行かないとコピー機を使えないな」「紙を買うために車を出さないといけないな」と試行錯誤に至るまでの手間がとにかくかかります。(それはそれで楽しいのですが、)デジタルなら、いつでもやり直しながらより良いデザインを追求できる。この素早いサイクルで繰り返し挑戦して失敗をしながら、ブラッシュアップしていけることは、創作の中で実験という活動を四六時中続けていたい自分にとって、とても素晴らしい出会いだったんです。
ちなみに、大学のインターフェイスデザインの講義は単位を落としていまして(笑)。早い時間の授業で朝に起きれなかったのが理由なのですが、今でもよく「UIの単位落としたのにUIデザイナーをやっている」とイジられています。
その後、グラフィック畑の人間なのにどうしてもソフトウェアへの興味を抑えられなくて、UIに打ち込める場所を求めた結果、2019年にグッドパッチへ新卒で入社しました。
「驚かせたい」という“作る”ことの原点
大学時代の制作活動では、明確な課題解決ではなく、探索的に立てたコンセプトを形にして人を驚かせるのが大好きでした。卒業制作では、主に紙媒体で表現される視覚詩(コンクリートポエトリー)にインタラクションをデジタル上で付与する実験的な作品を作っていました。
でも新卒でソフトウェアデザインの現場に入ってみると、それまで行ってきた制作や、大事にしていた観点と仕事としての現実のギャップがとにかく大きい。エンジニアとの連携、チームプレー、仕様の制限など、とにかく学ぶことが多すぎて頭がパンクしそうでしたね。
当時はソフトウェア、つまり日常的に使われる道具をデザインする過程で、デザイナー個人の強いエゴを介在させない客観的な判断を求められる場面に何度も直面しました。それまでの私は創作者として「どのように自己を表現するか」が親で、その結果として生まれる「アウトプット」が子のような関係だと捉えていました。ですがデザイナーという仕事を始めたタイミングで、デザイナー、仕事、ソフトウェアなどにおける「表現」とは何かについて、改めて一から考え直す必要があったんです。
具体的には、作品を作るのではなく道具をデザインする以上、「どのように機能するか、その上でどのように設計されるべきか」ということが優先される、と気付かされたんです。まずはベースラインの品質を確保して、しっかり機能させることが大前提であるという当たり前のことを、実務を通じて何度も認識させられました。
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また、学生時代に持っていた人を驚かせたい、という自己表現を優先する姿勢は、仕事の現場ではなかなか受け入れられず、学生時代からの創作活動を良い意味で否定され続けた新卒時代でした。このあたりの時期から、自分が取るべきデザインへの態度やデザイナーという仕事におけるあるべき姿を深く考え、良いバランスを探すようになりました。
モック1枚でチームに活気と希望をもたらす
それでも、仕事においてもプライベートにおいても、制作中には無邪気さだけは失わないようにしていました。隙があれば「こんなことできたら面白そうじゃない?」という制約に縛られない柔軟なパターンを必ず一つは作っていたんです。
もちろんそういった案が採用されることは多くありません。それでもデザイナーにはモノ作りをする役割だけでなく、チームにモチベーションや新しい示唆を与える役割があると考えています。例えば、結末が見えている会議より、予想外の発想に溢れる会議のほうがワクワクしませんか?「あのデザイナーは、いつも面白いアイデアを持ってくるから、毎週の定例にはワクワクして参加している」とクライアントに思ってもらえるような、そういうスタンスを大事にしたいんです。
ユーザーがストレスなく操作できる当たり前品質を実現した上で、「こんなUIがあったら面白いかも!」と人の心をくすぐるようなアイデアを追加すると、一気に盛り上がるしデザインも魅力的になるんですよ。私自身、コンセプト一つでチームのテンションを変えるのが好きで、モックを1枚出しただけでガラッと雰囲気が変わる瞬間を何度も体験してきました。
「捨て案」になる可能性のあるアイデアジャンプも、タイミングを間違えなければなにも遠回りじゃない。そのひと手間が、逆にチームを遠くに連れていってくれることもある……。たとえその時には採用されなくても、いつか未来で採用される可能性もありますし、そこから別のヒントが生まれるかもしれません。そうやって場に活気や希望をもたらすことこそ、デザイナーの大事な仕事の一つだと信じています。
制約の中にも遊び心は忘れない
一度は「実装できるかな」とか「正しいUIの形にしないと」と不安な思いが先に立つ時期もありました。でも、その不安の中にこそ遊びの余地があるんだと気付いた瞬間があったんです。そのきっかけを与えてくれたのは私の周りにたくさんいたエンジニアリングの文脈を持つクリエイターでした。
彼らは制約を誰よりも知っているのに、誰よりもクリエイティブで、UIをものすごく面白く語るんです。彼らとの仕事を通じて、フレームワークやルールがあるからこそ、どう表現するかを考えるのが面白いのだと分かりました。いわば大喜利やボードゲームのようなものです。お題やルールという制約があるからこそ「面白い or 面白くない」「コンセプトが良い or 悪い」「カッコいい or そうでない」といった判断がはっきりするんですよね。
制約や正しさを理解し、強いソフトウェアを作るという考え方を学んだ上で、デザイナー、仕事、ソフトウェアなどにおける「表現」を探求した結果、学生の頃から大事にしていたスタンスとマッシュアップした、現在の「制約を意識した上でぶっ飛んだイメージを描き、理想的な形で着地させる」という「コンセプトドリブン」なスタンスを体得しました。
今では「mineっぽい発想で、mineっぽいデザインをしてほしい」と言われることも増えてきました。例えば「この課題、面白いUIコンセプトを考えてほしい」「mineらしい案も見てみたい」といったリクエストですね。
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弊社代表の土屋からは「mineが作るUIで、クライアントや仲間に未来を想像させるような、夢が現実になるような、そういう仕事をしなさい」という言葉をもらいました。きっとデザインに対する私の態度を見て、このような言葉をかけてくれたのだと思います。
“身体”を通じて必ず滲み出てしまう“作家性”を良い結果につなげる
私はモノづくりの前提として、どのような工程を経たとしても制作者の意図や手癖、個性というものは少なからず反映されてしまうのではないか、と考えています。そしてこの前提から滲み出る制作者の色を「作家性」と呼んでいます。
このことはデジタルの世界でもフィジカルの世界でも本質的には変わらないと思っているのですが、デジタルの世界って、誰がキーボードを押しても同じ文字が入力される、という均質化された面がありますよね。一方で、例えば楽器やカメラなどのアナログな道具の場合、使い手の癖や腕前が直接的にアウトプットに反映されるので、作家性は強く出る傾向にあると思います。
しかし、デジタルの世界であってもなお、作る順番やコンポーネントの構造、全体の情報設計、メタファとしての命名など、制作に関わる全ての意思決定には、少なからず制作者の無意識的な作家性が滲み出るところが面白いなと思っています。そしてそれは、制作者個人の身体的個性、生活スタイル、モノづくりへの態度などを含めた、0と1で表せないあまりにもフィジカルな現象から影響を受けた、「身体」的なニュアンスをはらんでいると思うんです。
そしてここからが特に意識している部分ではあるのですが、必ず自分の身体性の影響=作家性をアウトプットが受けるのであれば、それを良いタイミングで、良い形で反映させることができないかということを大事にしているんです。
例えば、私がロゴを作るときは、必ず手描きから始めるんですよ。
パソコン上でパスを引く前に、まず自分の手癖の線を走らせてみる。そうすると、自分にしか描けない形が自然と生まれるんです。自分が意識しない美しい線は、意識していると引けませんし、ある意味補正されてしまうデジタル上ではうまく表現できません。だからこそ、手で描くことを意識します。計画的に外在的な曲線を生み出し、その中から自分で発見と選定を繰り返すことで、意識、無意識の両方から出した「美しい線」のパターンから、最終的にどの線を使うのかを選定することができます。その結果、それを清書する形で「Illustrator」でトレースしたとしても自分が選んだ曲線のニュアンスは大なり小なり残ります。初期の段階で、あえて手で描く工程を挟むことで、均質化した表現の中に、目指したいクオリティを目指すことができるんです。
グラフィックデザインに限らず、UIデザインもできるだけワイヤーフレームはメモ帳に紙で描くことから始める場合が多いです。どのような場合にせよ、モノづくりを始める初期の段階で、自分の身体性が十分に出力できる手法でパターンを出しながら、ソフトウェアで反映していく過程を経て、選定と均質化を進めていくイメージです。気軽に何度でもやり直せる方法で発散をするときこそ、自分の身体性を意識します。

3Dロゴを制作する過程
互いの作家性に触れ合うことで学びあう
一方で、ソフトウェアはチームで作ることが多いです。モノを作る上で、個人制作とチーム制作でアプローチが変わることにも面白さを感じています。一人なら夜中に「ダメだ、また作り直そう」と自由気ままに試せますが、チームだとそうはいかない。そして、メンバーそれぞれの身体性、そしてそこから滲み出る作家性も混ざりあっていくわけです。
ある意味ではバンドのアンサンブルみたいですよね。みんなでリズムや音程を考えながら、それぞれのパートが噛み合ったときの音圧はとても気持ちがいい。そしてその気持ちよさとは、作っているものが正しくゴールに向かっているという実感でもあるなと思っているんです。チームのアンサンブルとしてうまくいっているのだから、チームが目指したゴールに向けて進んでいるという解釈ができるんじゃないかと。
この「アンサンブル」を大切にしているのは、仕事だけではありません。実は私はグッドパッチでの仕事と平行しながら大学の講師として、普段は立体的なプロダクトをデザインしている学生たちにむけて、UIデザインを教えています。
ただ実際は「教える」というよりも、学生の作家性を引き出しながら自分も学ぶという感覚に近いですね。UIの仕組みやアプリの構造を伝えるときも、講義をするだけではなく「一緒に作ろうよ」と声をかけるんです。私も隣で別の作品を作り出して、「こうするとこんなUIになるよ」と一緒に試行錯誤したり、その作品を触って同じ感覚を共有する。すると学生たちは「スクリーンの中でこんな体験まで演出できるんだ」と興味を持ってくれるんですよね。一方的にレクチャーするより、お互いが「作るモード」に入ったほうが刺激になるし、お互いのプロセスやスタンスからたくさんのことを学べます。
グッドパッチのメンバーからも、デザインや自主制作の相談を受けることがありますが、そこでも同じスタンスで「一緒に作ろうよ」と誘いながら制作を進めていくことが多いんです。知識を与えるだけではなく、相手がどう作っているか、そのプロセスを見ながら私も学ぶ。お互いの滲み出る作家性に触れることでさらに視野が広がりますし、その体験が好きなので「教え合うこと」も大切にしています。
滲み出る表現がアウトプットにもたらす影響を、これからも見つめ続ける
これからの人生、私はずっと何かを「作り続けたい」と思う一方で、ソフトウェアだけを作るつもりはありません。大学時代と同じようにグラフィックデザインも続けたいですし、最近はアパレルにも興味があります。普段取り組んでいる格闘技の動きから面白いアイデアを取り入れられないかな……なんて考えたりもします。
70歳になってゲートボールチームを作ってるかもしれない、なんて冗談を言うこともありますが、それくらい「作る対象」は無限大だと思うんです。いろいろな経験が組み合わさって得た新しい発想や生まれた身体性がアウトプットに滲み出る。しかもアウトプットにとって良い形で滲み出る。そのための態度を考える。モノづくりに関する考え方が大きく変わり始めているこの時代でも、今はまだこのスタンスを続けていきたいと考えています。
デザインって考え方次第でどこまでも広がるものだと思うんです。いずれ経験値が増えてアウトプットが洗練される前に、まだまだやれることがあるはず。
私は上司の石井がよく言う「イケてるデザイナーは没案もかっこいい」という言葉が好きです。私もこの言葉のように「かっこいい没案をたくさん作る」をテーマに探索的なデザインを続けたいと考えています。これからも失敗や無駄を恐れずに楽しみながら挑戦していきたいんです。
もしこの記事を読んでくださった方の中に「何か作りたいな……」と思う人がいたら、ぜひ私や周りの人に声をかけてみてください。意外と自分の知らないところで、面白いものを作っている人がいるかもしれませんし、お互いにインスピレーションを与え合えたら素敵だなと思います。
「デザインで社会をよくしたい」という言葉をよく耳にしますが、「最初から社会に貢献しなきゃ」と構えてしまうと、何を作ればいいか分からなくなる人も多い気がするんです。私は、まずは「自分ができる美しい表現とは何か」ということや、自分の生活が普段の制作にどのような影響を当たるのだろうか、そして一番近くの誰を笑顔にできるだろうか、ということをとことん見つめることも肯定したいと思っています。
そしてできたものが結果的に社会を良くすることが理想的です。そこを目指すための自分の生活やモノづくりへの態度です。自分が本当にワクワクするものを生み出そうとする方が、長い目で見て個人にとっても、社会にとってもいいアウトプットにつながると考えています。
デザイナーが自分自身の生き方を信じる。信じられるスタイルを維持する。そういったアプローチからも「デザインの力を証明する」という大きな目標に向けて歩き始められると思っています。
私はこれからもデザイナーであり続けたいです。