2017年5月30日、中国大手IT会社テンセントでISUX(Internet Social User Experience)のジェネラルマネジャーとして働くJonathan Wong(ジョナサン)さんにインタビューをしました。

テンセントといえば、メッセンジャーアプリのWeChatやQQで有名です。6月に発表された「BranZ Top 100 Most Valuable Global Brands 2017」では、アメリカ以外のブランドとして唯一トップ10にランクインした中国企業です。前編ではそんな中国のメガベンチャーでUXチームを牽引するジョナサンさんのこれまでのキャリアに迫ります!

HTMLを独学で学びデザインもコードも書けるフリーランサーに

──まずはジョナサンさんのこれまでの経歴について教えてください。

J.W 私は高校生の時にプログラミングをはじめました。当時はまだインターネットが普及していなかったので、American Onlineというミニブラウザに毎回ログインして、ネット回線へアクセスするような時代でした。その後すぐにNetscapeが出てきて、Yahooが一気にインターネットを世の中に広めたんです。私は新しいものに目がなかったので、コンピュータ・サイエンスを専攻し、2年間学びました。

──大学はどうされていたのですか?

J.W 大学はシリコンバレーのサンノゼ州立大学へ通いました。はじめは建築学を専攻しましたが、早く卒業したかったので、当時アルバイトで関わっていた広告代理店での経験を活かし、マスコミや広告の専攻に変更しました。

──では、卒業後について教えてください。

J.W 卒業後は、友人の紹介でアートエージェンシーにしばらく勤めました。そこではグラフィックデザイン、ロゴデザイン、広告のバナーデザインをしましたね。HTMLを独学して、個人サイトも作っていました。

さらに、夜はフリーランサーとして働いていました。私は結構サンフランシスコの中でも「仕事が早くて信頼できる」と有名だったんです。当時(1996年)、私のようにデザインができてコードも書ける人は重宝されましたが、仕事の仕方は泥臭かったです。家をオフィスにして、毎朝起きては営業電話をかけ、デザインをひたすらするという日々を繰り返していました。その結果、本職よりフリーランスの仕事の方が稼げるようになっていました。

それに気づいた頃には本職をやめていましたね。ですが、フリーランスの仕事もすぐに飽きてしまったんです。当時東京のような都会ではなく騒音のないアメリカの田舎にいたので、つまらなく感じたのかもしれません。お金は稼げたので、学生ローンは返し終わりましたけどね。

98年にYahooへジョイン、Yahooが生み出したUEDという概念をアジアへ展開

──その後はどうされたんでしょうか?

J.W フリーランスをしていた頃、クライアントのうちの1人がYahooのマーケティングマネージャーだったんです。彼女に気に入られ、私はYahooへ入社しました。当時のデザイナーは、コーディングやアニメーションをできる人は多くなかった中で、私は両方できたのもあり、運よく入社できました。

──Yahooに勤められていたのですね!それはいつ頃でしょうか?

J.W Yahooへ入社したのは1998年です。社員が400人ほどいた中で、デザイナーは20人しかいませんでした。ちょうどYahooがグローバル展開しようとしていたタイミングで私が入社し、24か国のロゴを作りました。一口にグローバル展開と言っても、単純に言語を翻訳すればいいわけではなく、その国の文化を知る必要があったし、何と言ってもUXを考える必要がありました。
さらに当時はネットワーク回線が今より格段に遅かったので、UXを考えるときもバナーなどの容量を気にしなくてはいけなくて、かなり骨の折れる作業でした。今のデザイナーは回線スピードを気にしなくていいので本当に恵まれています。

──Yahooでは国際化をメインに行なっていたということですか?

J.W その頃、Yahooはデザインの最先端をいく企業だったんです。
例えば、当時使い勝手の話はGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)と呼ばれていたのですが、YahooがUED(User Experience Design)と呼び変えました。呼び方を変えた理由は、GUIはコンピュータ画面を優先するよりも、ユーザーを第一にデザインすべきだと考えたからです。

今でも中国では UX のことを UED(User Experience Design)と呼ぶことがありますが、その言葉も Yahoo が作ったんです。私たちは自分たちのことを Yahoo UED と呼び、YUI(Yahoo UI)というというデザインに関するナレッジを発信するブログを立ち上げました。私はアジアのグローバル展開を担当していたので、UEDという概念やYUIのナレッジをアジアへ展開していました。なので、私はYahooが当時のデザインスタンダードを作っていたと言っても過言ではないと思っています。

Yahooを辞めて日本を放浪、その後テレビ局でCPOに

──その後はどうされていたのですか?

J.W 7年ほどしてYahooで働くことに飽きてしまった私は、日本を含め、海外を3年間放浪していました。
そうしているうちにYahooの元同僚から「香港でTVB(Television Broadcasts Limited)というテレビ局をはじめたから手伝わないか?」と声をかけてもらいました。そこではCPO(Chief Product Officer)として採用も行い、0からはじめたチームを60人にまで成長させました。

──テレビ局ですか!当時はどのような環境だったのでしょうか?

J.W 当時北京オリンピックが行われていて、彼らはいつも競技中継を報道していましたが、私はその考えがあまり好きではありませんでした。そこで、端末でテレビ番組が見られるアジア初のプラットフォーム「myTV」を作り、視聴者の日常生活に密着するような番組を制作することにしたんです。私を含む番組プロデューサーは、リアル番組制作のために1ヶ月間ホテルに滞在しながら、当日収録した素材をすぐに編集し、翌日に放送するという日々を過ごしました。活気ある毎日ですごく楽しかったです。

──他にはどのような仕事を担当していたのでしょうか?

J.W TVBにいた2年間で、オンラインテレビのためにかなり多くの機能を開発しました。例えば、視聴者が動画コンテンツの中でキーワードを検索すると、自動でそのワードに関連する再生箇所にジャンプする検索ツールを開発しました。ですが、当時TVBの規模があまり大きくなかったので、その影響力は知れたものでした。

──TVBからどのようなきっかけでテンセントへ入社されたのですか?

きっかけはいくつかあります。

1つはやはりテンセントから過度なオファーが来ていたことですね。TVBでの仕事も一通り経験して、次のステージにいこうと思っていた時にテンセントだけでなく、グーグル、イーベイ、アリババなどいくつかの会社からコンタクトがあったんです。最初は中国で働くことに全く魅力を感じなかったので、テンセントはお断りしていました。ですが少し経ってもオファーの電話が鳴り止まなかったので、そこまで言うのなら、と最終的には折れて入ることにしたんです。当時の自分からしたら今、テンセントで働いている自分は想像もつかないと思います。

もう1つは、テンセントで働いている自分を思い描くことができたからです。テンセントのまずは何事もトライしてみるというベンチャー思考に共感し、自分がそのチームを強くしていく役割を果たしたいと感じたんです。

──そうだったんですね!熱烈なオファーを受けた末のキャリアチェンジだったんですね。

次回、ジョナサンさんがテンセントへジョインした後とテンセントのデザイン組織編成に迫ります!